みたまると もりちゃんの 会話
永井隆は どうして 長崎中の人から 尊敬されたのだろうか。
すすめかた ステップ1「つかむ」で永井さんの人柄と仕事を知り、ステップ2「調べる」で原爆のあとに何をしたのかを調べ、ステップ3「まとめる」でめあてに自分の言葉で答えてみよう。
長崎の医療復興
長崎の先人
永井隆は どうして 長崎中の人から 尊敬されたのだろうか。
すすめかた ステップ1「つかむ」で永井さんの人柄と仕事を知り、ステップ2「調べる」で原爆のあとに何をしたのかを調べ、ステップ3「まとめる」でめあてに自分の言葉で答えてみよう。
〜焼け野原でも決してあきらめなかったお医者さん〜
永井さんは、X線(レントゲン)などの放射線を使って病気を調べたり治したりする「放射線医学」のお医者さんでした。体や病気のしくみ、放射線が人の体にあたえる影響を研究していました。
20歳で長崎医科大学に入学したんじゃ。この時代、同じ世代の中でお医者さんになれるのは1000人に1〜2人。とっても狭き門だったんだぞ。
その一方で、X線を長い間使っていたため、放射線をたくさん浴びてしまい、白血病になりました。戦時中はX線フィルムが足りなかったため、X線で体の中を直接のぞく診療が多く、長い期間にわたって放射線を浴びたと長崎大学の資料に記録されています。
25歳のとき、カトリックの聖ヴィンセンシオ会に入り、無料の診察や奉仕活動を行っていました。さらに日中戦争では軍医として、敵も味方も区別せずにけが人や病人の手当てにあたった、と長崎大学の資料に記されています。
「周りからの評価」の記述をお願いします(例: 学生や患者さんからどう見られていたか)。
永井先生がくらした場所の地図を見る
1. 地図を大きくしたり動かしたりして、浦上地区のまわりの様子を見てみよう。
2. 爆心地(平和公園のあたり)と、永井さんが被爆した長崎医科大学が、どれくらい近いかをたしかめてみよう。
永井さんが原爆にあったのは、長崎市の北がわ、浦上地区にある「長崎医科大学」(今の長崎大学医学部)です。爆心地からおよそ700メートルしかはなれていませんでした。
後に永井さんが暮らした二畳ひと間の小さな家「如己堂」も同じ浦上にあり、今も長崎市永井隆記念館のとなりに残っています。
原爆のあと、永井さんたち救護班が向かった三ツ山町の木場は、今の純心大学があるところだよ。今の天皇陛下も、その場所にある原爆ホームで被爆者の方の声に耳を傾けているんだよ。
【要確認】たたき台の「三山町木場」は「三ツ山町」の表記に合わせました。被爆した場所は長崎医科大学、三ツ山は救護班が向かった場所として書き分けています。天皇陛下の訪問の記述も裏取りをお願いします。
被爆した瞬間、永井先生の頭からは血が勢いよく噴き出していました。普通ならパニックになるところですが、先生は自分の傷口にサッと布を巻きつけただけで、そのまま動けなくなった患者さんを背負って外へ運び出しました。「私の体は後回しだ。今助けないと死んでしまう人が目の前にいる。」その強い意志が、多くの命を救いました。
大学の校庭のまわりは真っ暗で、助けを求める声が響いていました。薬も包帯もほとんどありません。わずかに残った油をランプに注ぎ、その小さな明かりを頼りに、夜通しで何百人ものけが人の手当てを続けました。「病院が壊されたなら、自分たちが病院になればいい」——先生は「救護班」というチームを作り、山を越えて三ツ山の村へ向かい、村の人たちと一緒にみんなを助けました。
たたき台では空欄のため、これまでのページの内容から仮に入れています。差し替え・追記をお願いします。
なぜ髪が抜け、熱が出るのか、誰も理由がわからず怖がっていました。放射線の専門家だった先生は、顕微鏡でみんなの血を調べ、これが「原子爆弾」による放射能のせいだと突き止めました。怖がるだけでなく、科学の力で正体を知ることで、どうやって治せばいいかのヒントを世界に示したのです。
大学はボロボロでしたが、お医者さんを目指す学生たちが戻ってきました。先生は、雪が降るような寒い日も、窓もない教室で講義をしました。体が弱って動けなくなってからは、自分の小さな部屋(如己堂)に学生を呼び、ベッドの上から「これからの長崎を救うお医者さんになってくれ」と教え続けました。
永井先生は43歳という若さで亡くなりましたが、その心は今も長崎の街に生きています。先生が命がけで守った大学や病院は、今では世界中から病気を治す方法を学びに来る場所になりました。「誰かのために、自分ができる精一杯のことをする」これが、永井隆先生が私たちに残してくれた、一番大切な「復興のバトン」です。
「周りからの評価」の記述をお願いします(例: 長崎市名誉市民に選ばれたこと、多くの人が如己堂を訪ねたことなど)。
2月3日、島根県松江市に生まれる。お医者さんの父のもとで、医学を身近に感じて育つ。
長崎へ。勉強にはげみ、バスケットボール部でも活躍する。1932年に卒業し、放射線医学の道へ進む。
満州事変、のちに日中戦争で軍医として働く。敵も味方も区別せず手当てをした。
研究を重ね医学博士となる。翌年6月、長年X線を浴びたことによる白血病で「余命3年」と告げられる。
長崎医科大学のレントゲン室で分析していた、その瞬間、すさまじい光と爆風が先生を襲います。右側の頭から血が噴き出す大けがを負いましたが、先生は自分の傷を包帯で縛ると、すぐに燃え盛る建物から、動けない患者さんや学生たちを外へ運び出しました。
薬も包帯もほとんどない中、夜通しで手当てを続ける。ふらふらになりながらも「救護班」を作り、山を越えて三ツ山の村へ。旗を立てて臨時の病院を作り、村の人たちと一緒にみんなを助けました。
顕微鏡でみんなの血を調べ、髪が抜け熱が出る病気が「原子爆弾の放射能」によるものだと突き止め、「原子爆弾救護報告書」にまとめる。
窓もない教室で学生に講義を続ける。1948年、二畳ひと間の家「如己堂」に移り、ベッドの上から教え、『長崎の鐘』『この子を残して』などの本を書く。
長崎大学附属病院で亡くなる。葬儀には長崎中から大勢の人が集まった。
まとめマンガの画像をいただき次第、ここに入れます。
永井隆は どうして 長崎中の人から 尊敬されたのだろうか。
ここまで学んだことをもとに、めあてについて自分の言葉で考えてみよう。次のページの3択クイズで、覚えているかたしかめよう。
答えだと思うものを選んでから、「こたえを見る」をおしてみよう。
永井さんは、何を研究するお医者さんでしたか。
こたえ:イ X線を使って病気を調べたり治したりする「放射線医学」の専門家でした。(ステップ1の②)
原爆で病院がこわれたあと、永井さんたちはどうしましたか。
こたえ:ウ 「病院が壊されたなら、自分たちが病院になればいい」と、三ツ山の村に臨時の病院をつくりました。(ステップ2の①)
体が動かなくなった永井さんが、如己堂のベッドの上で続けたことは何ですか。
こたえ:ア 学生を呼んで教え続け、『長崎の鐘』などの本を書きました。(ステップ2の②・③)
ワークシートのPDFをいただき次第、ここにダウンロードボタンを置きます。
先生へ:めあて「永井隆はどうして長崎中の人から尊敬されたのだろうか」は、そのままワークシートの設問として使えます。
どうがは準備中です
参考文献の追加があればお知らせください。