みたまると もりちゃんの 会話
永井隆は どうして 長崎中の人から 尊敬されたのだろうか。
すすめかた ステップ1「つかむ」で永井さんの人柄と仕事を知り、ステップ2「調べる」で原爆のあとに何をしたのかを調べ、ステップ3「まとめる」でめあてに自分の言葉で答えてみよう。
長崎の医療復興
長崎の先人
永井隆は どうして 長崎中の人から 尊敬されたのだろうか。
すすめかた ステップ1「つかむ」で永井さんの人柄と仕事を知り、ステップ2「調べる」で原爆のあとに何をしたのかを調べ、ステップ3「まとめる」でめあてに自分の言葉で答えてみよう。
〜苦しみの中でも人を救うことをやめなかった人〜
永井さんは、X線(レントゲン)などの放射線を使って病気を調べたり治したりする「放射線医学」のお医者さんでした。体や病気のしくみ、放射線が人の体にあたえる影響を研究していました。





20歳で長崎医科大学に入学したんじゃ。この時代、同じ世代の中でお医者さんになれるのは1000人に1〜2人。とっても狭き門だったんだぞ。
その一方で、X線を長い間使っていたため、放射線をたくさん浴びてしまい、白血病になりました。戦時中はX線フィルムが足りなかったため、X線で体の中を直接のぞく診療が多く、長い期間にわたって放射線を浴びたと長崎大学の資料に記録されています。
25歳のとき、カトリックの聖ヴィンセンシオ会に入り、無料の診察や奉仕活動を行っていました。さらに日中戦争では軍医として、敵も味方も区別せずにけが人や病人の手当てにあたった、と長崎大学の資料に記されています。
29歳という若さで大学の重要な役割を任され、お医者さんとしてだけでなく、学生を教える教育者・研究者としても活動していました。(長崎医科大学からの評価)
永井先生は、自身も大けがをしている中で、浦上から8キロの山道を登りました。三山救護所に行くだけでも、命がけでした。
この三山救護所があった場所には、「恵の丘長崎原爆ホーム」という日本で最も歴史が古い被爆者養護施設が開設されたんじゃよ。令和8年8月9日には天皇皇后両陛下と愛子内親王殿下が訪問され、予定時間を超えて、熱心に入居者の声に耳を傾けておられたんじゃ。
永井先生がくらした場所の地図を見る
1. 地図を大きくしたり動かしたりして、浦上地区のまわりの様子を見てみよう。
2. 爆心地(平和公園のあたり)と、永井さんが被爆した長崎医科大学が、どれくらい近いかをたしかめてみよう。
永井さんが原爆にあったのは、長崎市の北がわ、浦上地区にある「長崎医科大学」(今の長崎大学医学部)です。爆心地からおよそ700メートルしかはなれていませんでした。
後に永井さんが暮らした二畳ひと間の小さな家「如己堂」も同じ浦上にあり、今も長崎市永井隆記念館のとなりに残っています。
〜被爆して苦しい中でも思いやりの心を〜
〜苦しい時こそ希望を与えたリーダー〜
〜ふるさとの復興を願い、行動し続ける〜
〜復興を自分の喜びとして分かち合う心〜
〜未来の子どもたちへ〜
〜人のやさしさに感謝し、希望をつないで〜



なぜ髪が抜け、熱が出るのか、誰も理由がわからず怖がっていました。放射線の専門家だった先生は、顕微鏡でみんなの血を調べ、これが「原子爆弾」による放射能のせいだと突き止めました。怖がるだけでなく、科学の力で正体を知ることで、どうやって治せばいいかのヒントを世界に示したのです。
大学はボロボロでしたが、お医者さんを目指す学生たちが戻ってきました。先生は、雪が降るような寒い日も、窓もない教室で講義をしました。体が弱って動けなくなってからは、自分の小さな部屋(如己堂)に学生を呼び、ベッドの上から「これからの長崎を救うお医者さんになってくれ」と教え続けました。


昭和24年(1949年)12月3日、長崎市名誉市民に選ばれました。名誉市民の第1号です。



昭和25年(1950年)、吉田茂首相から国家表彰を受けました。また、昭和天皇から銀杯一組を贈られました。


2月3日、島根県松江市に生まれる。お医者さんの父のもとで、医学を身近に感じて育つ。
長崎へ。勉強にはげみ、バスケットボール部でも活躍する。1932年に卒業し、放射線医学の道へ進む。
満州事変、のちに日中戦争で軍医として働く。敵も味方も区別せず手当てをした。
研究を重ね医学博士となる。翌年6月、長年X線を浴びたことによる白血病で「余命3年」と告げられる。
長崎医科大学のレントゲン室で分析していた、その瞬間、すさまじい光と爆風が先生を襲います。右側の頭から血が噴き出す大けがを負いましたが、先生は自分の傷を包帯で縛ると、すぐに燃え盛る建物から、動けない患者さんや学生たちを外へ運び出しました。
薬も包帯もほとんどない中、夜通しで手当てを続ける。ふらふらになりながらも「救護班」を作り、山を越えて三ツ山の村へ。旗を立てて臨時の病院を作り、村の人たちと一緒にみんなを助けました。
顕微鏡でみんなの血を調べ、髪が抜け熱が出る病気が「原子爆弾の放射能」によるものだと突き止め、「原子爆弾救護報告書」にまとめる。
窓もない教室で学生に講義を続ける。
二畳一間の家「如己堂」に移り、ベッドの上から教え、『長崎の鐘』『この子を残して』などの本を書く。
長崎大学附属病院で亡くなる。葬儀には長崎中から大勢の人が集まった。
永井隆は どうして 長崎中の人から 尊敬されたのだろうか。
ここまで学んだことをもとに、めあてについて自分の言葉で考えてみよう。次のページの3択クイズで、覚えているかたしかめよう。
答えだと思うものを選んでから、「こたえを見る」をおしてみよう。
永井隆さんは原子爆弾で自分も大けがをしながら、すぐに何を始めましたか。
こたえ:イ 永井隆さんは、自分自身も頭などに大けがを負っていましたが、目の前の命を助けるためにすぐに救護活動を始めました。(ステップ2の①)
永井隆さんは焼け野原になった町で何を見つけたとき、「人間も住める」と思いましたか。
こたえ:ウ 放射能が残っていて人が住めるかどうかを確かめるために、自ら観察を続け、焼け跡にアリやミミズ、植物の芽を見つけたことで生き物の力強さを感じました。(ステップ2の①)
病気で体が苦しい中でも、永井隆さんが町の復興のために続けたことは何ですか。
こたえ:ア 永井隆さんは「少しでも役に立ちたい」という思いで、『長崎の鐘』や『この子を残して』などの本を書きました。(ステップ2の①)
ワークシートのPDFをいただき次第、ここにダウンロードボタンを置きます。
先生へ:めあて「永井隆はどうして長崎中の人から尊敬されたのだろうか」は、そのままワークシートの設問として使えます。
どうがは準備中です
参考文献の追加があればお知らせください。