長崎ながさき医療いりょう復興ふっこう

長崎ながさき先人せんじん

永井ながい たかし

ステップ1 つかむ
焼け野原で負傷者の手当てをする永井隆

永井ながい たかしは どこで はたらいたひと

永井ながい先生せんせいがくらした場所ばしょ地図ちず

1. 地図ちずおおきくしたりうごかしたりして、浦上うらかみ地区ちくのまわりの様子ようすてみよう。

2. 爆心地ばくしんち平和へいわ公園こうえんのあたり)と如己堂にょこどうが、どれくらいちかいかをたしかめてみよう。

永井ながいたかし先生せんせいがはたらいていたのは、長崎ながさききたがわにある浦上うらかみ地区ちくの「長崎ながさき医科いか大学だいがく」(いま長崎ながさき大学だいがく医学部いがくぶ)です。

1945ねん8がつ9にち原子げんし爆弾ばくだんとされた爆心地ばくしんちから、大学だいがくまではおよそ700メートルしかはなれていませんでした。先生せんせいは、まちがいちばんひどくけた、まさにその場所ばしょひとびとをたすつづけたのです。

のち先生せんせいらした二畳にじょうひとちいさないえ如己堂にょこどう」も、おな浦上うらかみにあり、いま長崎ながさき永井ながいたかし記念館きねんかんのとなりにのこっています。

先人せんじんプロフィール

永井隆

野原のはらでもけっしてあきらめなかったお医者いしゃさん〜

わたしは長崎ながさき医科いか大学だいがくのお医者いしゃさんで、レントゲン(放射線ほうしゃせん)の研究けんきゅうをしていました。原子げんし爆弾ばくだん自分じぶんおおけがをしましたが、まえいのちたすけることをやめませんでした。

うまれ
1908ねん明治めいじ41ねん)2がつ3にち 島根しまねけん
なくなったとし
1951ねん昭和しょうわ26ねん)5がつ1にち 43さい
しごと
医者いしゃさん(長崎ながさき医科いか大学だいがく放射線ほうしゃせん医学いがく
はたらいた場所ばしょ
長崎ながさき 浦上うらかみ地区ちく
キーワード
救護班きゅうごはん如己堂にょこどう原子げんし爆弾ばくだん救護きゅうご報告書ほうこくしょ

自身じしん重傷じゅうしょういながら、科学者かがくしゃ冷静れいせい医師いし使命感しめいかんをもって、長崎ながさき医療いりょう崩壊ほうかいめた復興ふっこう立役者たてやくしゃです。

4コマまんが 自分じぶんよりみんなのために

焼け野原に立った永井隆が村人と看護師たちに「三ツ山に臨時救護所を作ろう」と呼びかけている場面
救護班きゅうごはん結成けっせい /1945ねん8がつ野原のはらがる
テントの中でランプの明かりを頼りに、永井隆が夜通し負傷者の手当てを続けている場面
不眠不休ふみんふきゅう手当てあて /くすり設備せつびもない市民しみんすくつづける
焼け野原に立った永井隆が村人と看護師たちに「三ツ山に臨時救護所を作ろう」と呼びかけている場面
救護班きゅうごはん結成けっせい /1945ねん8がつ野原のはらがる
病床の如己堂で永井隆が机に向かい執筆を続け、窓の外から家族が見守っている場面
如己堂にょこどうからとどける希望きぼう病床びょうしょうからも、医療いりょう平和へいわともつづけた

年表ねんぴょうる 長崎ながさき医療いりょう復興ふっこうものがたり

1945ねん8がつ9にち
原爆投下げんばくとうか
原爆げんばく投下とうか

長崎医科大学ながさきいかだいがくレントゲン室しつ分析ぶんせきしていた、その瞬間しゅんかん、すさまじいひかり爆風ばくふう先生せんせいおそいます。右側みぎがわあたまからおおけがをいましたが、先生せんせい自分じぶんきず包帯ほうたいしばると、すぐにさか建物たてものから、うごけない患者かんじゃさんや学生がくせいたちをそとはこしました。

8がつ10にち
つぎ
夜通よどおしの救護きゅうご

大学だいがく校庭こうてい野原のはら)のまわりはくらで、たすけをもとめるこえひびいていました。くすり包帯ほうたいもほとんどありません。わずかにのこったあぶらをランプにそそぎ、そのちいさなかりをたよりに、夜通よどおしで何百人なんびゃくにんものケガ人けがにん手当てあつづけました。

8がつ10にち
(2日後にちご
臨時りんじ病院びょういんをつくる

長崎市ながさきしやま地区ちくでは爆心地ばくしんちからげてきたひとたちが、やまのふもとのむら次々つぎつぎとやってきていました。先生せんせいはふらふらになりながらも、「救護班きゅうごはん」というチームをつくり、やまえてむらかいました。そこにはたて、「病院びょういんこわされたなら、自分じぶんたちが病院びょういんになればいい」と臨時りんじ病院びょういんつくって、むらひとたちと一緒いっしょにみんなをたすけました。

10がつ
原因げんいん発見はっけん

なぜかみけ、ねつるのか、だれ理由りゆうがわからずこわがっていました。放射線ほうしゃせん専門家せんもんかだった先生せんせいは、顕微鏡けんびきょうでみんなの調しらべ、これが「原子爆弾げんしばくだん」による放射能ほうしゃのうのせいだとめました。こわがるだけでなく、科学かがくちから正体しょうたいることで、どうやってなおせばいいかのヒントを世界せかいしめしたのです。

1946ねん
(1年後ねんご
青空あおぞら教室きょうしつ

大学だいがくはボロボロでしたが、お医者いしゃさんを目指めざ学生がくせいたちがもどってきました。先生せんせいは、ゆきるようなさむも、まどもない教室きょうしつ講義こうぎをしました。からだよわってうごけなくなってからは、自分じぶんちいさな部屋へや如己堂にょこどう)に学生がくせいび、ベッドのうえから「これからの長崎ながさきすくうお医者いしゃさんになってくれ」とおしつづけました。

エピソード 自分じぶんよりも患者かんじゃさんのいのち

被爆ひばくした瞬間しゅんかん永井ながい先生せんせいあたまからはいきおいよくしていました。普通ふつうならパニックになるところですが、先生せんせい自分じぶん傷口きずぐちにサッとぬのきつけただけで、そのままうごけなくなった患者かんじゃさんを背負せおってそとはこしました。「わたしからだ後回あとまわしだ。いまたすけないとんでしまうひとまえにいる。」そのつよ意志いしが、おおくのいのちすくいました。

永井ながい先生せんせいは43さいというわかさでくなりましたが、そのこころいま長崎ながさきまちきています。先生せんせいいのちがけでまもった大学だいがく病院びょういんは、いまでは世界中せかいじゅうから病気びょうきなお方法ほうほうまなびに場所ばしょになりました。「だれかのために、自分じぶんができる精一杯せいいっぱいのことをする」これが、永井隆ながいたかし先生せんせいわたしたちにのこしてくれた、一番いちばん大切たいせつな「復興ふっこうのバトン」です。

どうが

じゅんびちゅう

どうがは準備中じゅんびちゅうです

まとめ学習がくしゅうをしよう

ここまで調しらべたことをもとに、したの3つのいについて自分じぶん言葉ことばでまとめてみよう。

  1. Q1

    永井ながい先生せんせいは、原子げんし爆弾ばくだんとされたあと、いちばんさきなにをしましたか。

    ヒント:ステップ2の年表ねんぴょう原爆げんばく投下とうか」をてみよう。

  2. Q2

    病院びょういんくすりもなくなったまちで、先生せんせいたちはどんな工夫くふうをしてひとたすけましたか。

    ヒント:「救護班きゅうごはん」「臨時りんじ病院びょういん」がキーワードです。

  3. Q3

    先生せんせいのこした「復興ふっこうのバトン」を、いま自分じぶんならどうけとりますか。

    ヒント:正解せいかいはひとつではありません。おもったことをいてみよう。

先生せんせいへ:この3つのいは、そのままワークシートの設問せつもんとして使つかえます。PDFばんしたのボタンからダウンロードできます。

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