長崎ながさきの医療いりょう復興ふっこう

長崎ながさきの先人せんじん

永井ながい 隆たかし

ステップ1 つかむ
焼け野原で負傷者の手当てをする永井隆

みたまると もりちゃんの 会話かいわ

長崎原爆資料館を見学するもりちゃんとみたまるの4コマまんが。みたまるが「永井隆は古い友人で、戦争や原爆の中で長崎の人のために力を尽くした立派な人」と語り、もりちゃんが「もっと永井隆さんを知りたい」と話す
めあて

永井ながい隆たかしは どうして 長崎中ながさきじゅうの人ひとから 尊敬そんけいされたのだろうか。

すすめかた ステップ1「つかむ」で永井ながいさんの人柄ひとがらと仕事しごとを知しり、ステップ2「調しらべる」で原爆げんばくのあとに何なにをしたのかを調しらべ、ステップ3「まとめる」でめあてに自分じぶんの言葉ことばで答こたえてみよう。

① 永井ながい隆たかしさんのプロフィール

永井隆

〜焼やけ野原のはらでも決けっしてあきらめなかったお医者いしゃさん〜

名前なまえ
永井ながい 隆たかし
生年月日せいねんがっぴ
1908年ねん(明治めいじ41年ねん)2月がつ3日にち
出生地しゅっせいち
島根県しまねけん松江市まつえし
仕事しごと
お医者いしゃさん(放射線ほうしゃせん医学いがく)
主勤地しゅきんち
長崎市ながさきし 浦上うらかみ周辺しゅうへん(長崎ながさき医科いか大学だいがく)
被爆時ひばくじの年齢ねんれい
37歳さい
亡なくなった年とし
1951年ねん(昭和しょうわ26年ねん)5月がつ1日にち 43歳さい

人柄ひとがらを マンガで 見みてみよう

4コマまんが「幼少期にかけて〜学びの原点〜」。出雲の地に生まれた永井隆。両親は医学への研究心が強く、毎日楽しそうに勉強する姿を見て、隆の「学びたい心」が育っていった
4コマまんが「少年〜学生時代〜弱虫からスポーツマンへ〜」。運動が苦手だった隆は歩くことをコツコツ続け、長崎医大バスケ部で全国大会3位になった。「節約すべきは金ではない、時間と労力だよ」
4コマまんが「学生時代から医大卒業後、満州事変に」。医者の仕事は病気で苦しむ人といっしょに苦しみ、楽になる方法を考え続けることだと考えていた永井さん。満州事変では軍医として子どもたちに絵本を配り、戦争で苦しむ人を元気づけようとした

② 永井ながい隆たかしさんの仕事しごと

永井ながいさんは、X線せん(レントゲン)などの放射線ほうしゃせんを使つかって病気びょうきを調しらべたり治なおしたりする「放射線ほうしゃせん医学いがく」のお医者いしゃさんでした。体からだや病気びょうきのしくみ、放射線ほうしゃせんが人ひとの体からだにあたえる影響えいきょうを研究けんきゅうしていました。

お医者いしゃさんになるまでの道みち

  1. 松江まつえ高等こうとう学校がっこう(島根県しまねけん)に進学しんがく
  2. 長崎ながさき医科いか大学だいがくに進学しんがく(20歳さい)
  3. お医者いしゃさんとして研究けんきゅうを重かさねる
みたまる

20歳さいで長崎ながさき医科いか大学だいがくに入学にゅうがくしたんじゃ。この時代じだい、同おなじ世代せだいの中なかでお医者いしゃさんになれるのは1000人にんに1〜2人にん。とっても狭せまき門もんだったんだぞ。

原爆げんばく投下前とうかまえ 永井ながいさんのしたこと

1 長崎ながさきのお医者いしゃさんとして

  • 病気びょうきを治なおすお医者いしゃさんとして働はたらいていました。
  • X線せん(レントゲン)を使つかって病気びょうきを調しらべたり治なおしたりする「放射線ほうしゃせん医学いがく」を研究けんきゅうしていました。
  • 医学いがくの研究けんきゅうを続つづけ、36歳さいで医学いがく博士はかせになりました。
  • 大学だいがくで、ほかのお医者いしゃさんや学生がくせいに医学いがくを教おしえる仕事しごともしていました。

その一方いっぽうで、X線せんを長ながい間あいだ使つかっていたため、放射線ほうしゃせんをたくさん浴あびてしまい、白血病はっけつびょうになりました。戦時中せんじちゅうはX線せんフィルムが足たりなかったため、X線せんで体からだの中なかを直接ちょくせつのぞく診療しんりょうが多おおく、長ながい期間きかんにわたって放射線ほうしゃせんを浴あびたと長崎ながさき大学だいがくの資料しりょうに記録きろくされています。

2 「人ひとのために尽つくす医師いし」という一面いちめん

25歳さいのとき、カトリックの聖せいヴィンセンシオ会かいに入はいり、無料むりょうの診察しんさつや奉仕ほうし活動かつどうを行おこなっていました。さらに日中にっちゅう戦争せんそうでは軍医ぐんいとして、敵てきも味方みかたも区別くべつせずにけが人にんや病人びょうにんの手当てあてにあたった、と長崎ながさき大学だいがくの資料しりょうに記しるされています。

記入待ち

「周りからの評価」の記述をお願いします(例: 学生や患者さんからどう見られていたか)。

③ 地図ちずで見みる

永井ながい先生せんせいがくらした場所ばしょの地図ちずを見みる

1. 地図ちずを大おおきくしたり動うごかしたりして、浦上うらかみ地区ちくのまわりの様子ようすを見みてみよう。

2. 爆心地ばくしんち(平和へいわ公園こうえんのあたり)と、永井ながいさんが被爆ひばくした長崎ながさき医科いか大学だいがくが、どれくらい近ちかいかをたしかめてみよう。

永井ながいさんが原爆げんばくにあったのは、長崎ながさき市しの北きたがわ、浦上うらかみ地区ちくにある「長崎ながさき医科いか大学だいがく」(今いまの長崎ながさき大学だいがく医学部いがくぶ)です。爆心地ばくしんちからおよそ700メートルしかはなれていませんでした。

後のちに永井ながいさんが暮くらした二畳にじょうひと間まの小ちいさな家いえ「如己堂にょこどう」も同おなじ浦上うらかみにあり、今いまも長崎ながさき市し永井ながい隆たかし記念館きねんかんのとなりに残のこっています。

みたまる

原爆げんばくのあと、永井ながいさんたち救護班きゅうごはんが向むかった三みツ山やま町まちの木場こばは、今いまの純心じゅんしん大学だいがくがあるところだよ。今いまの天皇てんのう陛下へいかも、その場所ばしょにある原爆げんばくホームで被爆者ひばくしゃの方かたの声こえに耳みみを傾かたむけているんだよ。

【要確認ようかくにん】たたき台の「三山町木場」は「三ツ山町」の表記に合わせました。被爆した場所は長崎医科大学、三ツ山は救護班が向かった場所として書き分けています。天皇陛下の訪問の記述も裏取りをお願いします。

① 原爆げんばく投下とうか直後ちょくご 永井ながいさんの行動こうどう・思おもい

4コマまんが 自分じぶんよりみんなのために

焼け野原に立った永井隆が村人と看護師たちに「三ツ山に臨時救護所を作ろう」と呼びかけている場面
救護班きゅうごはん結成けっせい /1945年ねん8月がつ、焼やけ野原のはらに立たち上あがる
テントの中でランプの明かりを頼りに、永井隆が夜通し負傷者の手当てを続けている場面
不眠不休ふみんふきゅうの手当てあて /薬くすりも設備せつびもない市民しみんを救すくい続つづける
焼け野原に立った永井隆が村人と看護師たちに「三ツ山に臨時救護所を作ろう」と呼びかけている場面
救護班きゅうごはん結成けっせい /1945年ねん8月がつ、焼やけ野原のはらに立たち上あがる
病床の如己堂で永井隆が机に向かい執筆を続け、窓の外から家族が見守っている場面
如己堂にょこどうから届とどける希望きぼう /病床びょうしょうからも、医療いりょうと平和へいわの灯ひを灯ともし続つづけた

メインエピソード 自分じぶんよりも患者かんじゃさんの命いのち

被爆ひばくした瞬間しゅんかん、永井ながい先生せんせいの頭あたまからは血ちが勢いきおいよく噴ふき出だしていました。普通ふつうならパニックになるところですが、先生せんせいは自分じぶんの傷口きずぐちにサッと布ぬのを巻まきつけただけで、そのまま動うごけなくなった患者かんじゃさんを背負せおって外そとへ運はこび出だしました。「私わたしの体からだは後回あとまわしだ。今いま助たすけないと死しんでしまう人ひとが目めの前まえにいる。」その強つよい意志いしが、多おおくの命いのちを救すくいました。

大学だいがくの校庭こうていのまわりは真まっ暗くらで、助たすけを求もとめる声こえが響ひびいていました。薬くすりも包帯ほうたいもほとんどありません。わずかに残のこった油あぶらをランプに注そそぎ、その小ちいさな明あかりを頼たよりに、夜通よどおしで何百人なんびゃくにんものけが人にんの手当てあてを続つづけました。「病院びょういんが壊こわされたなら、自分じぶんたちが病院びょういんになればいい」——先生せんせいは「救護班きゅうごはん」というチームを作つくり、山やまを越こえて三みツ山やまの村むらへ向むかい、村むらの人ひとたちと一緒いっしょにみんなを助たすけました。

② 永井ながいさんによって変かわったこと・功績こうせき

仮置き

たたき台では空欄のため、これまでのページの内容から仮に入れています。差し替え・追記をお願いします。

1 原爆症げんばくしょうの正体しょうたいを世界せかいに示しめした

なぜ髪かみが抜ぬけ、熱ねつが出でるのか、誰だれも理由りゆうがわからず怖こわがっていました。放射線ほうしゃせんの専門家せんもんかだった先生せんせいは、顕微鏡けんびきょうでみんなの血ちを調しらべ、これが「原子げんし爆弾ばくだん」による放射能ほうしゃのうのせいだと突つき止とめました。怖こわがるだけでなく、科学かがくの力ちからで正体しょうたいを知しることで、どうやって治なおせばいいかのヒントを世界せかいに示しめしたのです。

2 次つぎの世代せだいのお医者いしゃさんを育そだてた

大学だいがくはボロボロでしたが、お医者いしゃさんを目指めざす学生がくせいたちが戻もどってきました。先生せんせいは、雪ゆきが降ふるような寒さむい日ひも、窓まどもない教室きょうしつで講義こうぎをしました。体からだが弱よわって動うごけなくなってからは、自分じぶんの小ちいさな部屋へや(如己堂にょこどう)に学生がくせいを呼よび、ベッドの上うえから「これからの長崎ながさきを救すくうお医者いしゃさんになってくれ」と教おしえ続つづけました。

3 今いまも長崎ながさきに生いきる「復興ふっこうのバトン」

永井ながい先生せんせいは43歳さいという若わかさで亡なくなりましたが、その心こころは今いまも長崎ながさきの街まちに生いきています。先生せんせいが命いのちがけで守まもった大学だいがくや病院びょういんは、今いまでは世界中せかいじゅうから病気びょうきを治なおす方法ほうほうを学まなびに来くる場所ばしょになりました。「誰だれかのために、自分じぶんができる精一杯せいいっぱいのことをする」これが、永井隆ながいたかし先生せんせいが私わたしたちに残のこしてくれた、一番いちばん大切たいせつな「復興ふっこうのバトン」です。

原爆げんばく投下後とうかご 永井ながいさんのしたこと

  • 自分じぶんも頭あたまに大おおけがをしながら、燃もえる大学だいがくから患者かんじゃさんや学生がくせいを運はこび出だしました。
  • 「救護班きゅうごはん」を作つくり、三みツ山やまに臨時りんじの病院びょういんをつくって、薬くすりも設備せつびもない中なかで何百人なんびゃくにんもの人ひとを手当てあてしました。
  • 髪かみが抜ぬけ、熱ねつが出でる病気びょうきの正体しょうたいが「原子げんし爆弾ばくだんの放射能ほうしゃのう」だと科学かがくの力ちからで突つき止とめ、「原子げんし爆弾ばくだん救護きゅうご報告書ほうこくしょ」にまとめました。
  • 体からだが動うごかなくなってからも、如己堂にょこどうのベッドの上うえから学生がくせいに教おしえ、『長崎ながさきの鐘かね』などの本ほんを書かいて平和へいわを訴うったえ続つづけました。
記入待ち

「周りからの評価」の記述をお願いします(例: 長崎市名誉市民に選ばれたこと、多くの人が如己堂を訪ねたことなど)。

③ 年表ねんぴょう 永井ながい隆たかしの生涯しょうがい

1908年ねん
誕生たんじょう

2月がつ3日にち、島根県しまねけん松江市まつえしに生うまれる。お医者いしゃさんの父ちちのもとで、医学いがくを身近みぢかに感かんじて育そだつ。

1928年ねん
(20歳さい)
長崎ながさき医科いか大学だいがくに入学にゅうがく

長崎ながさきへ。勉強べんきょうにはげみ、バスケットボール部ぶでも活躍かつやくする。1932年ねんに卒業そつぎょうし、放射線ほうしゃせん医学いがくの道みちへ進すすむ。

1933年ねん〜
軍医ぐんいとして戦地せんちへ

満州まんしゅう事変じへん、のちに日中にっちゅう戦争せんそうで軍医ぐんいとして働はたらく。敵てきも味方みかたも区別くべつせず手当てあてをした。

1944年ねん
(36歳さい)
医学いがく博士はかせに

研究けんきゅうを重かさね医学いがく博士はかせとなる。翌年よくねん6月がつ、長年ながねんX線せんを浴あびたことによる白血病はっけつびょうで「余命よめい3年ねん」と告つげられる。

1945年ねん8月がつ9日にち
(37歳さい)
原爆げんばく投下とうか

長崎医科大学ながさきいかだいがくのレントゲン室しつで分析ぶんせきしていた、その瞬間しゅんかん、すさまじい光ひかりと爆風ばくふうが先生せんせいを襲おそいます。右側みぎがわの頭あたまから血ちが噴ふき出だす大おおけがを負おいましたが、先生せんせいは自分じぶんの傷きずを包帯ほうたいで縛しばると、すぐに燃もえ盛さかる建物たてものから、動うごけない患者かんじゃさんや学生がくせいたちを外そとへ運はこび出だしました。

8月がつ10日にち〜
救護班きゅうごはん・臨時りんじの病院びょういん

薬くすりも包帯ほうたいもほとんどない中なか、夜通よどおしで手当てあてを続つづける。ふらふらになりながらも「救護班きゅうごはん」を作つくり、山やまを越こえて三みツ山やまの村むらへ。旗はたを立たてて臨時りんじの病院びょういんを作つくり、村むらの人ひとたちと一緒いっしょにみんなを助たすけました。

10月がつ
原因げんいん発見はっけん

顕微鏡けんびきょうでみんなの血ちを調しらべ、髪かみが抜ぬけ熱ねつが出でる病気びょうきが「原子げんし爆弾ばくだんの放射能ほうしゃのう」によるものだと突つき止とめ、「原子げんし爆弾ばくだん救護きゅうご報告書ほうこくしょ」にまとめる。

1946年ねん〜
青空あおぞら教室きょうしつと如己堂にょこどう

窓まどもない教室きょうしつで学生がくせいに講義こうぎを続つづける。1948年ねん、二畳にじょうひと間まの家いえ「如己堂にょこどう」に移うつり、ベッドの上うえから教おしえ、『長崎ながさきの鐘かね』『この子こを残のこして』などの本ほんを書かく。

1951年ねん5月がつ1日にち
(43歳さい)
永眠えいみん

長崎ながさき大学だいがく附属ふぞく病院びょういんで亡なくなる。葬儀そうぎには長崎ながさき中じゅうから大勢おおぜいの人ひとが集あつまった。

もりちゃんの まとめマンガ

画像待ち

まとめマンガの画像をいただき次第、ここに入れます。

めあて

永井ながい隆たかしは どうして 長崎中ながさきじゅうの人ひとから 尊敬そんけいされたのだろうか。

ここまで学まなんだことをもとに、めあてについて自分じぶんの言葉ことばで考かんがえてみよう。次つぎのページの3択たくクイズで、覚おぼえているかたしかめよう。

3択たくクイズ

答こたえだと思おもうものを選えらんでから、「こたえを見みる」をおしてみよう。

  1. Q1

    永井ながいさんは、何なにを研究けんきゅうするお医者いしゃさんでしたか。

    • ア 歯はの治療ちりょう
    • イ X線せん(レントゲン)などの放射線ほうしゃせん
    • ウ 目めの病気びょうき
    こたえを見みる

    こたえ:イ X線せんを使つかって病気びょうきを調しらべたり治なおしたりする「放射線ほうしゃせん医学いがく」の専門家せんもんかでした。(ステップ1の②)

  2. Q2

    原爆げんばくで病院びょういんがこわれたあと、永井ながいさんたちはどうしましたか。

    • ア 病院びょういんが直なおるまで待まった
    • イ 遠とおくの町まちへひなんした
    • ウ 「救護班きゅうごはん」を作つくり、自分じぶんたちで臨時りんじの病院びょういんをつくった
    こたえを見みる

    こたえ:ウ 「病院びょういんが壊こわされたなら、自分じぶんたちが病院びょういんになればいい」と、三みツ山やまの村むらに臨時りんじの病院びょういんをつくりました。(ステップ2の①)

  3. Q3

    体からだが動うごかなくなった永井ながいさんが、如己堂にょこどうのベッドの上うえで続つづけたことは何なんですか。

    • ア 学生がくせいに教おしえ、本ほんを書かいて平和へいわを訴うったえた
    • イ 新あたらしい病院びょういんの設計せっけいをした
    • ウ バスケットボールのコーチをした
    こたえを見みる

    こたえ:ア 学生がくせいを呼よんで教おしえ続つづけ、『長崎ながさきの鐘かね』などの本ほんを書かきました。(ステップ2の②・③)

ワークシート・さらにくわしく

ワークシート(PDF)

ファイル待ち

ワークシートのPDFをいただき次第、ここにダウンロードボタンを置きます。

先生せんせいへ:めあて「永井ながい隆たかしはどうして長崎中ながさきじゅうの人ひとから尊敬そんけいされたのだろうか」は、そのままワークシートの設問せつもんとして使つかえます。

どうが

じゅんびちゅう

どうがは準備中じゅんびちゅうです

参考さんこう文献ぶんけん

記入待ち

参考文献の追加があればお知らせください。

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