長崎ながさきの医療いりょう復興ふっこう

長崎ながさきの先人せんじん

永井ながい 隆たかし

ステップ1 つかむ
焼け野原で負傷者の手当てをする永井隆

みたまると もりちゃんの 会話かいわ

長崎原爆資料館を見学するもりちゃんとみたまるのまんが。みたまるが「永井隆は古い友人で、戦争や原爆の中で長崎の人のために力を尽くし、目の前の人を大切にし続けた人」と語り、もりちゃんが「もっと永井隆さんを知りたい」と話す。めあて「永井隆はどうして長崎中の人から尊敬されたのだろうか」
めあて

永井ながい隆たかしは どうして 長崎中ながさきじゅうの人ひとから 尊敬そんけいされたのだろうか。

すすめかた ステップ1「つかむ」で永井ながいさんの人柄ひとがらと仕事しごとを知しり、ステップ2「調しらべる」で原爆げんばくのあとに何なにをしたのかを調しらべ、ステップ3「まとめる」でめあてに自分じぶんの言葉ことばで答こたえてみよう。

① 永井ながい隆たかしさんのプロフィール

ロザリオを手に、遠くを見つめる永井隆

〜苦くるしみの中なかでも人ひとを救すくうことをやめなかった人ひと〜

名前なまえ
永井ながい 隆たかし
生年月日せいねんがっぴ
1908年ねん(明治めいじ41年ねん)2月がつ3日にち
出生地しゅっせいち
島根県しまねけん松江市まつえし
仕事しごと
医学いがく博士はかせ、作家さっか、長崎ながさき医科いか大学だいがく教授きょうじゅ
主勤地しゅきんち
長崎市ながさきし
被爆時ひばくじの年齢ねんれい
37歳さい
亡なくなった年とし
1951年ねん(昭和しょうわ26年ねん)5月がつ1日にち 43歳さい

人柄ひとがらを マンガで 見みてみよう

4コマまんが「幼少期にかけて〜学びの原点〜」。出雲の地に生まれた永井隆。両親は医学への研究心が強く、毎日楽しそうに勉強する姿を見て、隆の「学びたい心」が育っていった
4コマまんが「少年〜学生時代〜弱虫からスポーツマンへ〜」。運動が苦手だった隆は歩くことをコツコツ続け、長崎医大バスケ部で全国大会3位になった。「節約すべきは金ではない、時間と労力だよ」
4コマまんが「学生時代から医大卒業後、満州事変に」。医学生のころから患者さんに寄りそっていた永井さん。満州事変では軍医として日本の兵士だけでなく敵の兵士のけがの手当てもし、子どもたちに絵本を読み聞かせた。昭和15年に長崎へ帰り、功五級金鵄勲章を授けられた

② 永井ながい隆たかしさんの仕事しごと

永井ながいさんは、X線せん(レントゲン)などの放射線ほうしゃせんを使つかって病気びょうきを調しらべたり治なおしたりする「放射線ほうしゃせん医学いがく」のお医者いしゃさんでした。体からだや病気びょうきのしくみ、放射線ほうしゃせんが人ひとの体からだにあたえる影響えいきょうを研究けんきゅうしていました。

お医者いしゃさんになるまでの道みち

  1. 松江まつえ高等こうとう学校がっこう(島根県しまねけん)に進学しんがく
  2. 長崎ながさき医科いか大学だいがくに進学しんがく(20歳さい)
  3. お医者いしゃさんとして研究けんきゅうを重かさねる
子どものころの永井隆
子こどものころ
松江高等学校のころの永井隆
高校こうこう時代じだい
長崎医科大学のころの永井隆
大学だいがく時代じだい
優勝カップをかこむバスケットボール部の部員たち
バスケットボール部ぶ
軍服を着た永井隆と、着物姿の女性
軍服ぐんぷくを着きた永井ながいさん
みたまる

20歳さいで長崎ながさき医科いか大学だいがくに入学にゅうがくしたんじゃ。この時代じだい、同おなじ世代せだいの中なかでお医者いしゃさんになれるのは1000人にんに1〜2人にん。とっても狭せまき門もんだったんだぞ。

原爆げんばく投下前とうかまえ 永井ながいさんのしたこと

1 長崎ながさきのお医者いしゃさんとして

  • 病気びょうきを治なおすお医者いしゃさんとして働はたらいていました。
  • X線せん(レントゲン)を使つかって病気びょうきを調しらべたり治なおしたりする「放射線ほうしゃせん医学いがく」を研究けんきゅうしていました。
  • 医学いがくの研究けんきゅうを続つづけ、36歳さいで医学いがく博士はかせになりました。
  • 大学だいがくで、ほかのお医者いしゃさんや学生がくせいに医学いがくを教おしえる仕事しごともしていました。

その一方いっぽうで、X線せんを長ながい間あいだ使つかっていたため、放射線ほうしゃせんをたくさん浴あびてしまい、白血病はっけつびょうになりました。戦時中せんじちゅうはX線せんフィルムが足たりなかったため、X線せんで体からだの中なかを直接ちょくせつのぞく診療しんりょうが多おおく、長ながい期間きかんにわたって放射線ほうしゃせんを浴あびたと長崎ながさき大学だいがくの資料しりょうに記録きろくされています。

2 「人ひとのために尽つくす医師いし」という一面いちめん

25歳さいのとき、カトリックの聖せいヴィンセンシオ会かいに入はいり、無料むりょうの診察しんさつや奉仕ほうし活動かつどうを行おこなっていました。さらに日中にっちゅう戦争せんそうでは軍医ぐんいとして、敵てきも味方みかたも区別くべつせずにけが人にんや病人びょうにんの手当てあてにあたった、と長崎ながさき大学だいがくの資料しりょうに記しるされています。

周まわりからの評価ひょうか

29歳さいという若わかさで大学だいがくの重要じゅうような役割やくわりを任まかされ、お医者いしゃさんとしてだけでなく、学生がくせいを教おしえる教育者きょういくしゃ・研究者けんきゅうしゃとしても活動かつどうしていました。(長崎ながさき医科いか大学だいがくからの評価ひょうか)

4コマまんが「人のために学び続けた医師〜患者と医学に向き合った永井隆〜」。患者さんの話をよく聞き、X線で病気を調べ、学生に医学を教え、夜おそくまで研究を続ける永井さん

③ 地図ちずで見みる

被爆当時の長崎市とその周辺の地図。爆心地のすぐ近くに浦上天主堂と長崎医科大学があり、そこから北東へはなれた山の中に三山救護所がある

永井ながい先生せんせいは、自身じしんも大おおけがをしている中なかで、浦上うらかみから8キロの山道やまみちを登のぼりました。三山みつやま救護所きゅうごしょに行いくだけでも、命いのちがけでした。

みたまる

この三山みつやま救護所きゅうごしょがあった場所ばしょには、「恵めぐみの丘おか長崎ながさき原爆げんばくホーム」という日本にっぽんで最もっとも歴史れきしが古ふるい被爆者ひばくしゃ養護ようご施設しせつが開設かいせつされたんじゃよ。令和れいわ8年ねん8月がつ9日にちには天皇てんのう皇后こうごう両りょう陛下へいかと愛子あいこ内親王ないしんのう殿下でんかが訪問ほうもんされ、予定よてい時間じかんを超こえて、熱心ねっしんに入居者にゅうきょしゃの声こえに耳みみを傾かたむけておられたんじゃ。

地図ちずを動うごかして たしかめよう

永井ながい先生せんせいがくらした場所ばしょの地図ちずを見みる

1. 地図ちずを大おおきくしたり動うごかしたりして、浦上うらかみ地区ちくのまわりの様子ようすを見みてみよう。

2. 爆心地ばくしんち(平和へいわ公園こうえんのあたり)と、永井ながいさんが被爆ひばくした長崎ながさき医科いか大学だいがくが、どれくらい近ちかいかをたしかめてみよう。

永井ながいさんが原爆げんばくにあったのは、長崎ながさき市しの北きたがわ、浦上うらかみ地区ちくにある「長崎ながさき医科いか大学だいがく」(今いまの長崎ながさき大学だいがく医学部いがくぶ)です。爆心地ばくしんちからおよそ700メートルしかはなれていませんでした。

後のちに永井ながいさんが暮くらした二畳にじょうひと間まの小ちいさな家いえ「如己堂にょこどう」も同おなじ浦上うらかみにあり、今いまも長崎ながさき市し永井ながい隆たかし記念館きねんかんのとなりに残のこっています。

① 原爆げんばく投下とうか直後ちょくご 永井ながいさんの行動こうどう・思おもい

1 原爆げんばく投下とうか直後ちょくごの救護きゅうご活動かつどう

〜被爆ひばくして苦くるしい中なかでも思おもいやりの心こころを〜

  • 永井ながい博士はかせ自身じしんも被爆ひばくし、こめかみの動脈どうみゃくが切きれる大おおけがを負おっていましたが、すぐに負傷者ふしょうしゃの救護きゅうごを始はじめました。
  • 自分じぶんの命いのちも危あぶない中なか、「目めの前まえで苦くるしむ人ひとを助たすけたい」という思おもいで、治療ちりょうの手てを止とめませんでした。
  • その後ごも何度なんども危険きけんな状態じょうたいになりましたが、やけどの薬くすりを作つくったり、患者かんじゃを診みて回まわったりして、人々ひとびとを助たすけ続つづけました。
4コマまんが「永井隆〜傷つきながらも命を救った医師〜」。被爆して頭から血を流しながらも、目の前の人を助けようと手当てを続け、倒れそうになっても患者さんを診て回る永井さん
もりちゃん「永井さんは、自分も大変なのに、どうして浦上に戻ろうとしたのかな?」みたまる「うん。被爆して苦しい時でも、相手の苦しみを自分のように考えることは、なかなかできないことだよね。」

2 混乱こんらんの中なかでも人々ひとびとの心こころを支ささえる

〜苦くるしい時ときこそ希望きぼうを与あたえたリーダー〜

  • 永井ながい博士はかせは、自身じしんも負傷ふしょうしている中なかで、慌あわてずにどう行動こうどうするかを考かんがえました。
  • 突然とつぜん笑わらった永井ながい博士はかせにつられて周まわりの人ひとたちも笑わらい、張はりつめていた気持きもちが少すこしやわらぎました。
  • みんなが落おち着つきを取とり戻もどしたことを確たしかめると、永井ながい博士はかせは再ふたたび救すくいを求もとめる人々ひとびとのもとへ向むかいました。
4コマまんが「永井隆〜混乱の中でも、人々の心を支えた医師〜」。混乱する救護の場で、永井さんが突然「ワッハッハッハッ!」と笑い、まわりの人たちも笑って落ち着きを取り戻す
もりちゃん「こんな大変なときに、みんなで笑ったのには意味があったんだね。」みたまる「苦しいときこそ希望をみんなに与えるリーダーだったんだね。」

3 焼やけ野原のはらから、もう一度いちど

〜ふるさとの復興ふっこうを願ねがい、行動こうどうし続つづける〜

  • こめかみの傷きずがまだ治なおらないころから、「真まっ先さきに浦上うらかみに帰かえる」と話はなしていました。
  • 原爆げんばくの爆発ばくはつや被害ひがい、患者かんじゃの症状しょうじょう・治療ちりょう・救護きゅうごの様子ようすなどを調しらべ、原稿げんこう用紙ようし約やく100枚まいに記録きろくしました。
  • 人々ひとびとの不安ふあんを少すこしでも減へらすため、専門家せんもんかに放射能ほうしゃのうの測定そくていを依頼いらいし、仲間なかまと生いき物ものの観察かんさつも続つづけ、約やく3週間しゅうかん後ごにはアリの群むれ、その後ごにはミミズやネズミ、植物しょくぶつの芽めなどを確認かくにんしました。
  • その様子ようすを見みて、永井ながい博士はかせは「人間にんげんも住すめる」と確信かくしんし、浦上うらかみや長崎ながさきの人ひとのためにその後ごも放射能ほうしゃのうの変化へんかや患者かんじゃの経過けいかを記録きろくし続つづけました。
4コマまんが「焼け野原から、もう一度〜浦上の復興を願った永井隆〜」。焼け野原で記録を続け、アリやミミズ、植物の芽を見つけて「人間も住める」と確信する永井さん
もりちゃん「永井さんは、自分も大変なのに、どうして浦上に戻ろうとしたのかな?」みたまる「浦上が大切なふるさとだったからだね。『この町をもう一度よくしたい』っていう思いが、行動につながったんだと思うよ。」

4 浦上うらかみ・長崎ながさきのみんなのために

〜復興ふっこうを自分じぶんの喜よろこびとして分わかち合あう心こころ〜

  • 永井ながい博士はかせは、自分じぶんの家いえよりも教会きょうかい・大学だいがく・町まちの復興ふっこうを優先ゆうせんして考かんがえていました。
  • 自身じしんは、如己堂にょこどう(一坪ひとつぼほどの小ちいさなトタン小屋ごや)で生活せいかつしていました。
  • 「自分じぶんだけ立派りっぱな家いえに入はいるのではなく、町まちのみんなといっしょに復興ふっこうしたい」と考かんがえていました。
  • バラック小屋ごやや家いえが少すこしずつ建たっていく様子ようすを見みて、浦上うらかみがよみがえっていくことを喜よろこびました。
4コマまんが「浦上に残り、復興を願った永井隆〜みんなといっしょに、この町を〜」。自分の家よりも町の復興を優先し、少しずつ家が建っていく浦上を町の人たちと喜ぶ永井さん
もりちゃん「家が少しずつ建っていくのを見て、永井さんはうれしかったんだね。」みたまる「町が良くなっていくことを、自分の喜びとして、みんなと分かち合ったんだよ。」

5 自分じぶんの国くにのためにできることを

〜未来みらいの子こどもたちへ〜

  • 永井ながい博士はかせは、献金けんきんや桜さくらの苗木なえぎの寄贈きぞう、本ほんの寄贈きぞうなどを通とおして、浦上うらかみや長崎ながさきの復興ふっこうを支ささえました。
  • 病気びょうきが進すすみ、命いのちが危あぶない状態じょうたいになっても、本ほんを書かき続つづけ、収入しゅうにゅうの多おおくを再建さいけんのために役立やくだてました。「税金ぜいきんは日本にっぽん再建さいけんの油あぶらだ」と考かんがえ、自分じぶんのためだけでなく、社会しゃかいの立たて直なおしのために行動こうどうしました。
  • 戦災せんさいを受うけた人々ひとびとにも、いつまでも立たち止どまるのではなく、自分じぶんたちの力ちからで生活せいかつを立たて直なおしていこうと呼よびかけました。
  • 永井ながい博士はかせは、言葉ことばと行動こうどうの両方りょうほうで、浦上うらかみ・長崎ながさき・日本にっぽんの復興ふっこうを支ささえ続つづけました。
4コマまんが「復興のために尽くした永井隆〜町のため、日本のために〜」。病床でも本を書き続け、収入を町の再建に役立て、人々に自分たちの力で立ち直ろうと呼びかける永井さん
もりちゃん「長崎だけでなく、自分の国の復興や発展のために、自分にできることをやっていたんだね。」みたまる「うん。もう一度自分たちの力で歩き出せることを示してくれた素敵なリーダーだったよ。」

6 祈いのりに支ささえられた如己堂にょこどう

〜人ひとのやさしさに感謝かんしゃし、希望きぼうをつないで〜

  • 永井ながい博士はかせは、原爆げんばくや病気びょうきで苦くるしい中なかでも、人ひとを助たすけたり本ほんを書かいたりして生いき続つづけました。
  • 浦上うらかみの人々ひとびとや信者しんじゃ仲間なかまのやさしさによって、二畳にじょうほどの小ちいさな家いえ「如己堂にょこどう」が建たてられました。
  • 永井ながい博士はかせは、人々ひとびとへの感謝かんしゃを大切たいせつにし、如己堂にょこどうから多おおくの人ひとに希望きぼうを届とどけました。
4コマまんが「祈りに支えられた如己堂〜人のやさしさに感謝し、希望をつないで〜」。浦上の人々や信者仲間が如己堂を建て、病床の永井さんがそこから本を書き、子どもたちや訪れる人に希望を届ける
もりちゃん「永井さんにとって、信じる心や祈ることが、前に進むための大きな力になっていたんだね。」みたまる「うん。永井さんは、長崎を最後の被爆地にしたいと願いながら、平和を祈り続けていたんだよ。」
木々に囲まれた小さな木造の家、如己堂の外観
如己堂にょこどうの外観がいかん
永井隆の胸像と、永井隆が書いた「如己愛人」の書
永井ながいさんの胸像きょうぞうと「如己愛人にょこあいじん」の書しょ
畳の小さな部屋に机やマリア像が置かれた如己堂の内部
如己堂にょこどうの内部ないぶ

② 永井ながいさんによって変かわったこと・功績こうせき

原爆げんばく投下後とうかごの活躍かつやく・功績こうせき

1 原爆症げんばくしょうの正体しょうたいを世界せかいに示しめした

なぜ髪かみが抜ぬけ、熱ねつが出でるのか、誰だれも理由りゆうがわからず怖こわがっていました。放射線ほうしゃせんの専門家せんもんかだった先生せんせいは、顕微鏡けんびきょうでみんなの血ちを調しらべ、これが「原子げんし爆弾ばくだん」による放射能ほうしゃのうのせいだと突つき止とめました。怖こわがるだけでなく、科学かがくの力ちからで正体しょうたいを知しることで、どうやって治なおせばいいかのヒントを世界せかいに示しめしたのです。

2 次つぎの世代せだいのお医者いしゃさんを育そだてた

大学だいがくはボロボロでしたが、お医者いしゃさんを目指めざす学生がくせいたちが戻もどってきました。先生せんせいは、雪ゆきが降ふるような寒さむい日ひも、窓まどもない教室きょうしつで講義こうぎをしました。体からだが弱よわって動うごけなくなってからは、自分じぶんの小ちいさな部屋へや(如己堂にょこどう)に学生がくせいを呼よび、ベッドの上うえから「これからの長崎ながさきを救すくうお医者いしゃさんになってくれ」と教おしえ続つづけました。

「後進の指導」のパネル。学生たちと写る永井隆と、身体で学び身体で教える、学生の出欠は取らないなどの指導方針
後進こうしんの指導しどう
長崎医学会総会での永井隆の最後の講義の写真(昭和21年11月17日)
最後さいごの講義こうぎ(昭和しょうわ21年ねん)

周まわりからの評価ひょうか

1 長崎市ながさきし名誉めいよ市民しみんに選えらばれる

昭和しょうわ24年ねん(1949年ねん)12月がつ3日にち、長崎市ながさきし名誉めいよ市民しみんに選えらばれました。名誉めいよ市民しみんの第だい1号ごうです。

長崎市名誉市民章
長崎市ながさきし名誉めいよ市民しみん章しょう

2 如己堂にょこどうには国内外こくないがいから多おおくの人ひとが訪おとずれる

  • 昭和しょうわ24年ねん(1949年ねん)昭和しょうわ天皇てんのう
    長崎ながさき医科いか大学だいがく病院びょういんで拝謁はいえつ。永井ながいさんは白血病はっけつびょうが進行しんこうしており、すでに寝ねたきりの状態じょうたいでした。自宅じたくの如己堂にょこどうから担架たんかで長崎ながさき医科いか大学だいがくまで運はこばれて、昭和しょうわ天皇てんのうを迎むかえています。
  • 昭和しょうわ23年ねん(1948年ねん)ヘレン・ケラー
  • 昭和しょうわ24年ねん(1949年ねん)ローマ教皇きょうこう特使とくし
担架に横たわる永井隆と、そのそばに立つ昭和天皇
昭和しょうわ天皇てんのうとの拝謁はいえつ
ヘレン・ケラーから贈られた英文の手紙
ヘレン・ケラーから贈おくられた手紙てがみ

3 国くにからの表彰ひょうしょう

昭和しょうわ25年ねん(1950年ねん)、吉田よしだ茂しげる首相しゅしょうから国家こっか表彰ひょうしょうを受うけました。また、昭和しょうわ天皇てんのうから銀杯ぎんぱい一組ひとくみを贈おくられました。

内閣総理大臣吉田茂の名で永井隆に銀杯を贈ることを記した表彰状
表彰状ひょうしょうじょう
展示ケースに飾られた銀杯
贈おくられた銀杯ぎんぱい

③ 年表ねんぴょう 永井ながい隆たかしの生涯しょうがい

1908年ねん
誕生たんじょう

2月がつ3日にち、島根県しまねけん松江市まつえしに生うまれる。お医者いしゃさんの父ちちのもとで、医学いがくを身近みぢかに感かんじて育そだつ。

1928年ねん
(20歳さい)
長崎ながさき医科いか大学だいがくに入学にゅうがく

長崎ながさきへ。勉強べんきょうにはげみ、バスケットボール部ぶでも活躍かつやくする。1932年ねんに卒業そつぎょうし、放射線ほうしゃせん医学いがくの道みちへ進すすむ。

1933年ねん〜
軍医ぐんいとして戦地せんちへ

満州まんしゅう事変じへん、のちに日中にっちゅう戦争せんそうで軍医ぐんいとして働はたらく。敵てきも味方みかたも区別くべつせず手当てあてをした。

1944年ねん
(36歳さい)
医学いがく博士はかせに

研究けんきゅうを重かさね医学いがく博士はかせとなる。翌年よくねん6月がつ、長年ながねんX線せんを浴あびたことによる白血病はっけつびょうで「余命よめい3年ねん」と告つげられる。

1945年ねん8月がつ9日にち
(37歳さい)
原爆げんばく投下とうか

長崎医科大学ながさきいかだいがくのレントゲン室しつで分析ぶんせきしていた、その瞬間しゅんかん、すさまじい光ひかりと爆風ばくふうが先生せんせいを襲おそいます。右側みぎがわの頭あたまから血ちが噴ふき出だす大おおけがを負おいましたが、先生せんせいは自分じぶんの傷きずを包帯ほうたいで縛しばると、すぐに燃もえ盛さかる建物たてものから、動うごけない患者かんじゃさんや学生がくせいたちを外そとへ運はこび出だしました。

8月がつ10日にち〜
救護班きゅうごはん・臨時りんじの病院びょういん

薬くすりも包帯ほうたいもほとんどない中なか、夜通よどおしで手当てあてを続つづける。ふらふらになりながらも「救護班きゅうごはん」を作つくり、山やまを越こえて三みツ山やまの村むらへ。旗はたを立たてて臨時りんじの病院びょういんを作つくり、村むらの人ひとたちと一緒いっしょにみんなを助たすけました。

10月がつ
原因げんいん発見はっけん

顕微鏡けんびきょうでみんなの血ちを調しらべ、髪かみが抜ぬけ熱ねつが出でる病気びょうきが「原子げんし爆弾ばくだんの放射能ほうしゃのう」によるものだと突つき止とめ、「原子げんし爆弾ばくだん救護きゅうご報告書ほうこくしょ」にまとめる。

1946年ねん〜
窓まどのない教室きょうしつで講義こうぎ

窓まどもない教室きょうしつで学生がくせいに講義こうぎを続つづける。

1948年ねん〜
如己堂にょこどうへ

二畳にじょう一間ひとまの家いえ「如己堂にょこどう」に移うつり、ベッドの上うえから教おしえ、『長崎ながさきの鐘かね』『この子こを残のこして』などの本ほんを書かく。

1951年ねん5月がつ1日にち
(43歳さい)
永眠えいみん

長崎ながさき大学だいがく附属ふぞく病院びょういんで亡なくなる。葬儀そうぎには長崎ながさき中じゅうから大勢おおぜいの人ひとが集あつまった。

もりちゃんの まとめマンガ

まとめマンガ「学んだことを、これからへ〜永井さんから受け取った思い〜」。もりちゃんとみたまるが永井さんから学んだことをふり返り、「大きなことじゃなくても、今の自分にできることから」と考える
めあて

永井ながい隆たかしは どうして 長崎中ながさきじゅうの人ひとから 尊敬そんけいされたのだろうか。

ここまで学まなんだことをもとに、めあてについて自分じぶんの言葉ことばで考かんがえてみよう。次つぎのページの3択たくクイズで、覚おぼえているかたしかめよう。

3択たくクイズ

答こたえだと思おもうものを選えらんでから、「こたえを見みる」をおしてみよう。

  1. Q1

    永井ながい隆たかしさんは原子げんし爆弾ばくだんで自分じぶんも大おおけがをしながら、すぐに何なにを始はじめましたか。

    • ア すぐに遠とおくの安全あんぜんな街まちへ逃にげた
    • イ けがをした人ひとたちの救護きゅうご活動かつどう
    • ウ 新あたらしい家いえを建たてる大工だいく工事こうじ
    こたえを見みる

    こたえ:イ 永井ながい隆たかしさんは、自分じぶん自身じしんも頭あたまなどに大おおけがを負おっていましたが、目めの前まえの命いのちを助たすけるためにすぐに救護きゅうご活動かつどうを始はじめました。(ステップ2の①)

  2. Q2

    永井ながい隆たかしさんは焼やけ野原のはらになった町まちで何なにを見みつけたとき、「人間にんげんも住すめる」と思おもいましたか。

    • ア きれいな川かわの水みず
    • イ 空そらを飛とぶ鳥とり
    • ウ アリやミミズ、植物しょくぶつの芽め
    こたえを見みる

    こたえ:ウ 放射能ほうしゃのうが残のこっていて人ひとが住すめるかどうかを確たしかめるために、自みずから観察かんさつを続つづけ、焼やけ跡あとにアリやミミズ、植物しょくぶつの芽めを見みつけたことで生いき物ものの力強ちからづよさを感かんじました。(ステップ2の①)

  3. Q3

    病気びょうきで体からだが苦くるしい中なかでも、永井ながい隆たかしさんが町まちの復興ふっこうのために続つづけたことは何なんですか。

    • ア 本ほんを書かき続つづける
    • イ 外国がいこくに行いって支援しえんをお願ねがいする
    • ウ 絵えを描かいて売うる
    こたえを見みる

    こたえ:ア 永井ながい隆たかしさんは「少すこしでも役やくに立たちたい」という思おもいで、『長崎ながさきの鐘かね』や『この子こを残のこして』などの本ほんを書かきました。(ステップ2の①)

ワークシート・さらにくわしく

ワークシート(PDF)

ファイル待ち

ワークシートのPDFをいただき次第、ここにダウンロードボタンを置きます。

先生せんせいへ:めあて「永井ながい隆たかしはどうして長崎中ながさきじゅうの人ひとから尊敬そんけいされたのだろうか」は、そのままワークシートの設問せつもんとして使つかえます。

どうが

じゅんびちゅう

どうがは準備中じゅんびちゅうです

参考さんこう文献ぶんけん

記入待ち

参考文献の追加があればお知らせください。

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